古代日本の書物と西洋の経典
538年ころ、第29代欽明天皇の時代、西の方から、多くの仏教の経典や仏具が伝来しました。この時、仏教派の蘇我稲目は、神道派の物部氏と争いつつも、仏教を受け入れたわけですが、仏教伝来に関しては、漢字の伝来も含め、ネットに数多く掲載されているので、そちらで勉強したほうがいいかもしれません。
ところで、日本の歴史に関連する「古事記」と「日本書紀」は、どのような経緯をたどっているのでしょうか。
第33代の推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子が帝紀と旧辞という書物を編纂しました。
古事記は、この帝紀と旧辞を学んだと思われる第40代天智天皇から伝え聞いた、稗田阿礼の記憶を、太安万侶が筆録した物語。さらに、歴史書として第41代の持統天皇と藤原不比等が日本書紀を編纂した、ということになっています。
その経緯を以下の図のようにまとめましたが、段階的に移行していった様子が、なんとなくわかります。
縄文の時代、狩猟採取で、その日暮らしの生活をしていた人々。縄文の後半から弥生時代にかけて稲作が始まると、コメは備蓄できることから、それを単に消費する人とは異なり、貯めて供給する人や呪術師が、現れ始めました、といいます。
やがて勢力として、支配するもの、支配されるものに分類され、新しい社会が形成されていったわけです。このような時代の経緯と「古事記」との整合性を、ちょっとややこしいのですが、そのうち探ってみたいと思います。
ところで、西洋の経典の場合は、どうなんでしょう。
若いころの話で、恥ずかしいのですが、わたしは、キリスト教のバイブルを、
「旧訳聖書と新訳聖書」だと思っていました。つまり、大昔の人が翻訳したことから、旧訳。一方、その後、新たに翻訳されたのが、新訳。その筋の方から、お叱りを受けますが、そう思い込んでいたンだから、しゃあない。( ̄_ ̄ i)
でも、旧約と新約であれば「何を約束したんだ?」という疑問につながっていったわけで、無知は、いろいろな動機を与えてくれます。
さて、唯一神の経典を概観しますと、非常に荒っぽい見方で専門家から叱られそうですが、稚拙な頭で考えるに、以下のような流れになるようですね。
最初にでてきたのが、タナクと呼ばれるユダヤ教の経典。やがて、旧約聖書と新約聖書がキリスト教の経典となりました。旧約聖書は、ユダヤ教のタナクとほぼ共通しているといわれます。さらにこのふたつの書を取り込んで、コーランができたとのこと。まったく、別な書と思っていましたが、大きな勘違いでした(・∀・)。
それぞれの宗派により、唯一神のとらえ方が異なることから、その経典の内容が違うのは、自然の流れでしょう。冒頭の図を再掲しましたが、古代日本においても同じ様にあてはめると、「帝紀/旧辞」推古天皇(聖徳太子、蘇我馬子)、「古事記」天武天皇(大海人皇子)、「日本書紀」持統天皇(藤原不比等)の違いは、宗派の違いと考えるのもよろしいかと。
あー、無知を自覚する毎日(_ _。)
はるか大昔の真実は、ある程度研究者により推測できるものの、現代科学では解き明かせないことも数多くあります。悠久の歴史を紐解くにつれ、その興味は深まるばかりですΣ\( ̄ー ̄;)。