古事記編纂の背景
さて、古事記が編集された背景を解説しましょう。こういった背景は、特に覚える必要はないですが、深く知りたい際には、とても重要な情報です。古事記は、時には史実に基づくものの、少なからず、勝者のバイアス(偏り)がある、ということを、分かってもらえれば、よろしいかと思います。
▮古事記編纂の時代背景
さて、
古事記は、一般的には、40天武天皇から伝え聞いた稗田阿礼(ひえだのあれ)の話を、太安麻呂(おおのやすまろ)が筆録し、43元明天皇に献上されたもの、といわれています。内容は、神代から33推古天皇までの物語。下図は33推古天皇から、44元正天皇までの天皇系図。さらに、各代に関係する側近または実権を握る人物を加えてあります。
593年、初の女帝である33推古天皇の時代に聖徳太子が摂政となり、天皇を中心とする政治の確立を目指したことから、このころより、まとめていたのかもしれません。それにしても、なぜ、古事記は、33推古天皇までなのでしょうか。この時代は、40天武天皇と39弘文天皇が対立、日本古代の最大の争いといわれる「672年壬申の乱(じんしんのらん)」が起こるなど、政局が不安定な時代だったので、いろいろあったンですね。
一方、日本書紀は、神代から41持統天皇までが書かれており、44元正天皇の時代に完成しました。この第41代から第44代までの時代、藤原不比等が政治の実権を握っていたことも、関係しているのかもしれません。
▮政治の実権を握る重鎮
大陸との行き来が盛んになり始めた7世紀近辺のこの時代、聖徳太子始め、蘇我馬子/蝦夷/入鹿、中臣(藤原)鎌足、中大兄皇子、大海人皇子、藤原不比等など、天皇の継承とともに、その実権も次々に代わっていったわけです。
この時代は、天皇と政権の持っている重鎮を織り交ぜると、魑魅魍魎とした社会であり、非常に複雑ですんなりと線が結べない、カオス状態です。
が、これから、本題の古事記の解説をしつつ、上の人物を、わかりやすく移動していく予定。とはいうものの、はてさて、いつになるやら。。。!(´Д`;)。